書くという行為の怠慢

 

ブログを書くのに、「書くことが好きである」必要はあるのだろうか?最近そんなことを考えている。このブログに何度か書いているが、私はそれ程書くことが好きではない。昔から国語の成績はひどかったし、書いた文章が誰かから褒められたという経験も皆無と言ってよい。だが、こうしてブログを書いている。ブログを書く前は、7年くらい日記を書いていた。にも拘らず、書くことが好きではないのだ。なぜか?

書くのは一番手っ取り早い表現方法

自分の感情や思想を表現する方法は、無数にある。イラスト、音楽、動画、写真、何でも良い。その中で、書くという表現方法は、一番手っ取り早く敷居が低い方法だ。紙とペン、もしくはPCやスマホがあれば何かしら書いて発信できる。対して、動画はカメラ、編集ソフト、編集につかうPCなどなど始めるまでの敷居が高い。また、始めてからの学習時間も長い。その他音楽、イラストも動画編集同様に敷居と学習コストが書くことに比べて高い。

それらに対して、書くことは、一番手っ取り早い表現方法なのだ。私が書くことを続けているのは、いわば惰性だ。好きだからではない。ほかの表現方法が面倒で、だけど何かしら表現して感情を鎮めたいときにやむなく選択されるのが書くという行為であり、もし私に天性の音楽の才があり、呼吸をするがごとくピアノが弾けたならば私はピアノを弾いて自分を落ち着かせていたことだろう。だが、ピアノはアパート暮らしの人間に常に弾くことを許可しない。たぶん、ピアニストに私がなっていたとしても、深夜に惰性で書いて感情を鎮めていただろう。

書くことに留まるのは怠慢

世にはびこる「書くことが好き」の大半は思い込みだ。他に表現するすべのない人たちが、最後に手元に残っている「書く」という行為にすがりつき、押し寄せてくる無力感を誤魔化すセリフが、「書くことが好き」という悪魔の囁きなのだ。だが、よーく自分の心を見つめなおせば、すぐに気付くはずだ。「自分、それ程書くの好きじゃないわ」ということに。そこに気付かず、文才を盾に自分でも理解不能なレトリックを振りかざすようになったらおしまいだ。いよいよ「書くことが好き」という呪縛から逃れられなくなり、書きながら湧いてくる「つらさ」も受け入れられずに「書くことの奴隷」になってしまう。あなたは支配されているのだよ、書くことに。ほんの一瞬でもよいから、書くことから逃れること。ちょっとでもよいから楽器を弾いたり、絵を書いたり、動画を作ったりすること。色々やって、書くことを「表現の手段の一つ」として相対化することが大切なのだ。「書くことが好き」はだから微笑ましいセリフでない。それは9割怠慢とセットなのだ。

 

 

 

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“書くという行為の怠慢” への2件の返信

  1. 深いね!!私は絵を描いている表現者として言わせてもらうけど、文章の表現力っていうのも秀でた文才の持ち主が作成するとそれはまた音楽や絵とは別のすばらしさがあると思うよ。文章があまり得意でない私からしたら、soichiro氏のブログは読みやすく、内容も面白いです。それは絵は描けるけど文章は上手に書けない私からしたら羨ましいものです。

    1. ブログは芸術としての文章という側面が弱いけど、文学とかは確かに職人のように腕を磨き上げていく余地があるかもね。

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