架空の読者と日記

 

昨日の記事の後半にこんなことを書いた。

twitterに長文を連投する人は、「誰かが読んでいるだろう」という妄想のおかげで飽きることなく投稿できるのだろう。「ブログってどうしたら続けられるの?」という悩みが溢れかえっているのは、この「架空の読者」の想定のしにくさに所以しているとさえ言えそうだ。

これを書いた後、高校~大学卒業までの数年間日記を書き続けていた自分をふと思い出した。あの頃の私はネットに全く興味がなかったので、文はすべて紙のノートとシャープペンで書いていた。今でも実家に帰ると当時の日記が残っており、全部で10冊くらいになる。シャープペンで書かれているので、文字が薄くなってくるのが心配だが、先日帰省した際にざっと見た感じでは、まだまだ読むのに耐えられる。

当時は大学入学まで自分のPCを持っておらず、在学中もネットは図書館の無線LAN以外でやらなかったので、今のようにインターネット上に自分の文章を公開するということが考えられなかった。また、書いている内容も人には見せられないようなものばかりだったので、ネットに長けていてもブログには書かなかったと思う。

日記には毎回書き始めた時間と、書き終わった時間を書いていたのだが、読み返すと2~3時間かけて書かれているものが多くて、当時の自分が何をモチベーションにしていたのか不思議でたまらない。それこそ昨日私が書いたtwitterに長文を連投する行為と同じで、日記をノートに書いてもウェブ上に記事がストックされるわけでもなく、アフィでお金が稼げるわけでもない。プロブロガー(笑)に言わせれば無駄な行為だろう。

ではなぜ私は日記を書き続けたのか?

色々読み返していると、しきりに「未来のこれを読んでる自分よ」という文言が沢山出てくる。うわーっとそれを見るたびに思うわけだが、本当に多いのだ。おそらく、当時の私は、自分の日記を未来の自分に読ませるつもりで書いていた。決して、誰にも読まれなくてもよいと思っていたわけではなかったのだ。その点では、twitterに「架空の読者」を妄想しながら長文を連投する人たちと同じだったのかもしれない。

ブログはどうしてもウェブに公開している都合上、読者は自分以外の誰か、それもPVという形でカウントされる誰かを想定せざる得ない。オフラインの日記やtwitterとはこの点が異なる。書く内容も、常識があればあるほど自主規制的なものになる。

そこまでしてブログを続ける価値があるか不明だが、結局そこまでして続けたい人というのは、文章を書くのが好きとかそういうのではなく、「何かを始めたい」気持ちを満足させる手っ取り早い手段がブログだから、ブログを続けたいのだろう。

私も結構そういう部分がある。正直、文章を書くのはそれ程好きではない。「書くのが好きです」とか言っている人を見ると、めんどくさい奴だなーと思ってしまう。だが、取りあえず手っ取り早く何かをやるツールとして「ブログ」というのは便利なので、こうしてタラタラ更新している。中学時代に学校で配布された職業図鑑的な冊子の、「作家になるには」という欄に、作家志望が多いのは、「自分の考えを表現する一番手っ取り早い手段が書くことだから」的なことが書かれていたが、本当にその通りだ。表現方法は本来無数にあるはずなのだが、書くという行為が一番参入の敷居が低いから、「自分には、書くしかない」と錯覚してしまうのだ。

以前書いたが、スキル重視ならブログを書き続けるよりYouTubeに動画を投稿したほうが得るものが多い。アメブロに日常を書き続けるより、YouTubeに動画を投稿する過程で動画編集のスキルをつけたほうが、絶対に役立つ。どうしてもブログにこだわるのなら、wordpressとか使って一からサーバの管理も含めて学ぶつもりでいたほうが、後々得るものが多い。少なくとも、「何かを始めたいからブログを」という人たちは。

 

 

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