ワンクリックで黒歴史が消せることの自分史的功罪について

ネットにアップしたものは一生黒歴史として残り続ける、とよく言われる。

しかし、本当にそうだろうか?

私の実家には今でも、中学時代から大学卒業時まで書き続けた日記がカギのかかった引き出しに隠されている。それらは黒歴史であり、帰省するたびに読み返しては顔を赤くしている。

日記はノートブック十数冊分。すべてシャープペンシルで書かれており、それを書いていた当時も今も、書いたものを削除するにはノートを破るか、消しゴムで消すか、はたまた(家族に見つからないように)こっそりゴミにださなければならない。その労力が、まさに日記を今日にいたるまで生きながらえさせ、今も黒歴史として君臨させる所以になっている。

だが、その黒歴史は当時の自分の心理状態を思い出させてくれる。それによって現在の自分と比較して成長が実感できたり、又はそこから失ってしまった純粋さのようなものを感じとって、懐かしい気持ちになれたりする。

対して、ネットにアップした黒歴史はどうか?

例えばこのブログ。私がこれを黒歴史だと判断し、恥ずかしいからもう消してしまおうと思えばいとも簡単に消すことが出来る。

例えばツイッター。自分の呟きが急に恥ずかしいものに感じられることってあると思うが、そういった衝動に駆られてアカウントを削除しようと思えば、簡単な手続きですぐに消すことが出来る。Googleのインデックスやキャッシュの期限なんて高々知れていて、数か月もすれば自分の呟きは殆ど跡形もなくなってしまう。

ネットにアップされた黒歴史は、想像以上に脆い。タイトルの、ワンクリックでというのは誇張だが、しかし紙に書かれたテキストに比べれば、まさに「ワンクリック」で消せてしまう。

若い自意識が、ネットに素朴な感性を綴ることの功罪はここから浮かび上がる。彼らはほんのちょっとした衝動で、「バックアップ」を取ることさえせずにブログやアカウントを消去する。それにより、彼らは自分史を喪失する。それにより、かつての自分と現在の自分を比較して、成長を喜んだり、純粋さを失ったことを嘆いたり、単純な懐かしい気持ちに浸るという機会を失うのだ。

ペンを握り文字を綴る労力が逸していた、そもそもの言語化の機会を、ネットはキータッチとスワイプと、予測変換で何十倍にも増加させた。その反面、自分史の土台はかつてより何十倍も脆くなったと言えようか。

 

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